氷上のアイスワーム
山岳から流れ出る氷の河
その氷のある極限環境にしか生息できない生きものがいる。
いまだ謎に包まれたこの生命の神秘を観察するべく、僕は山を登り始めた。
Byron Glacier
アイスワームはアラスカ沿岸部の氷河に生息している。しかし、調べてみると、自分の足でアプローチできる氷河は限られており、その中から三箇所見つけたうちの一つがバイロン氷河であった。
この氷河はアラスカのなかで、もっとも降雪量の多い南部地域南斜面に位置しているため、アクセスできる期間は氷河の上の雪が完全に溶ける8月中旬から、雪が降り始める10月初旬までに限られた。その他の季節は Inaccesible つまり、「到達不可」である。
バイロン氷河を眺めるだけであれば、駐車場に車を停めてトレイルを2キロ歩きさえすればそれでよい。
しかし、氷上に辿り着こうと思うなら、急峻なフィヨルド地形を登り、氷と残雪の混ざる斜面を歩かなければならない。
アイスワームの神秘性
・穴の開いていない氷の中を自由に入って行ける。
・指に乗せると8分ほどで死滅する。
・太陽光を避け、雲天あるいは夜のみに活動する。
・他の生物が持たない低温下でのエネルギー生産の機構を体内に保持している。(特殊ATP合成機構)
・北米大陸、北西海岸の沿岸部の氷河にのみ生息しており、内陸の氷河にはいない。
神秘に包まれたミミズ
- 旅の目的 -
バイロン氷河にアイスワームが生息しているという情報だけは、2012年には手に入れていた。
アイスワームの神秘性に心打たれることなく、それから8年間を別の撮影に費やしてきた。
2020年に入って、このバイロン氷河が、近々なくなってしまうだろうという記事をどこかで読んだ。
そのことを押し広げてみたとき、つまりアイスワームがこの地球上から姿を消す日がそう遠くはないという憶測が、僕の中によぎった。
僕はいつもそうであるように、アラスカ大学の奥の奥にある書庫を探ることから始めた。
旅のインスピレーションは、旅が旅を呼ぶこともあれば、写真を見ることから一歩を踏み出すこともある。
しかし実際に一番多いのは、僕自身が他人の言葉から影響を受けて夢想しているとき。
とりわけ、現代の価値観からは重要視されなかった研究論文を読んでいるとき、つまり、「誰かが掴みかけた真実のかけら」を拾えるイメージを探り当てたときに得られることが多い。
古く些細な論文
アラスカ大学フェアバンクス校の図書館の一番奥の暗いコンクリートの書庫でその欠片は眠っていた。
おおくのアイスワームに関する記事や論文を当たることで、ひとつ気がついたことがあった。
それは、だれもアイスワームのライフサイクル(生活史)のなかの、子孫をふやす段階を知らない。
極地に生き、見た目も地味で、さして重要ではないと考えられてきた命に、関心を示す人は少ない。当然のことだ。
旅の目的は、現地でアイスワームを観察することではあるけれど、最終的にこの生物が子を生む段階を写真に収めることに決まった。
宇宙のNASAが注目
この重要視されない生命体に目を付けたのが、NASAだった。2016年、NASAはラトガース大学のダニエル・シェーン教授におよそ二千万円の研究費を提供して、この生物の解明に力を注いだ。とくにアイスワームが低温でもエネルギーを生産できる仕組み(特殊なATP生産機構)に注目し、どのような代謝で生命を維持しているかを明らかにすることが彼らのミッションであった。
氷河への道
「まずは、バイロン氷河を登ろう。」
きっとこの氷河は10年でなくなる。そうなればこのアイスワームも10年で生きる場所を失う。
僕がアラスカに来た2008年、随分と大きかった印象のバイロン氷河も、その末端が温暖化によって後退をつづけ、2022年現在では、氷河の源流に届きそうなほどである。それはつまり、この氷河へのアプローチがより厳しくなることを同時に意味している。
これまで氷河を歩いた記憶を手がかりに、道具類を揃え出発した。
氷の中に這入る
観察をはじめてすぐに不思議に思い、調べを進めてみてもまだよくわからないアイスワームの行動がある。それは、硬い氷の中に「スッと」入ってゆくという行動だ。今年それを再び確かめたが、たしかに穴の開いていない氷に分け入ってゆく…。
アイスワームは、自身が進む道の前だけを、氷を溶かして進んでいるようにも見える。
氷河の上のアイスワーム
バイロン氷河には、たしかにアイスワームが生きていた。夜行性と言われる生物でありながら日中に多くのアイスワームが氷上を這っていた。この生物を研究している研究者の論文によると、何百とあるアラスカの沿岸部氷河で、アクセスできるところには他にもあり、アイスワームが生息するのは氷河の涵養域(氷河が雪の圧力で生成される、いわゆる氷河の源流)のすこし下流であるという意見で一致している。しかし僕は、ほかの氷河も苦労して登ってたどり着いてみたものの、バイロン氷河でしか未だ見つけてはいない。
静水力学的骨格
観察をはじめてすぐに疑問を持った、このアイスワームが氷の中に入ってゆくという行動。調べてみると、ミミズという種族全体が備えている身体構造として、静水力学的骨格というキーワードが挙げられていた。これはミミズには骨がないが、体内の水圧を利用することで力を生み出し、地上のミミズでは土壌を掘り進める理由となっている構造である。いまのところ、この静水力学的骨格という構造によって、氷の中を進んでゆくことができる、という説明が散見されるが、実際を観察した僕は、これは疑わしいと思っている。融雪剤のような塩化マグネシウム様の物質を生成しているのではないかと色々実験中ではあるが、しかし、残念ながらいまのところ反駁できる仮説材料を持ち合わせていない。
謎が深まる
いま、僕の自宅にアイスワームが59匹生存している。
氷に入ってゆく行動の謎は、一旦据え置き、彼らが繁殖する行動を観察できないかと期待をして、様々な条件に59匹を分別して観察を続けている。
冷凍庫に入れれば寒すぎて死んでしまうため、冷蔵庫に毎日氷を足すことで、彼らの生息環境にできるだけ近づけるようにして飼育しているなかで、疑問ばかりが湧いてくるのであった。
いったい彼らは、いつ、どこで、どんな条件になったときに、卵を産むのだろうか。
果たして、人工飼育下で子を残すための条件を再現することが可能なのだろうか。