雨林帯に生きるクロクマ
舞台は南東アラスカのアナンクリークという川の河口付近。
毎年7月半ばになると、多くのピンクサーモンが海から帰ってくる。
南東アラスカでのすべての撮影は、あるひとつの疑問から始まった。
Anan Creek
アナンクリークはアメリカ最大のトンガス国有林のなかにある。総面積は日本の東北地方全体と同じ面積を誇り、現代には稀有な、未知を多く残す森。
僕はアラスカに来た2008年当初、この川の存在を知らなかった。
しかし歴史が始まるより以前から、この地ではクマがサケをとる場所としてアラスカ先住民たちのなかでは有名であったらしい。
多くの人に知られることなく存在し続けていたのは、簡単には足を踏み入れられない多島海に、ひっそりとあるからだった。
そこは、ヒグマとクロクマを同時に見られる、世界でもめずらしい2種のクマの漁場でもある。
クマがつくる豊かな森
- 旅の目的 -
アラスカのクマに関する情報を集めていると、
「クマが豊かな森をつくっている」
という一文がときおりでてくる。
いったいどういうことなのか、内容を読んでみても、いまいち腑に落ちないことが多かった。
現場へ素早く足を運ぶというのは、撮影における僕の信条でもある。
「クマが森をつくる」とは、一体どういうことなのか…。この目でみて確かめよう。
こうして旅の計画がはじまった。
また、雨林帯のこともよく知りたかったし、周囲の海をゆっくり眺めてもみたかった。
それで、セスナも水上タクシーもつかわずに、カヤックでアナンクリークまで行くことにした。
いちばん近い村から撮影地のベースまで片道3日。11日間の旅の計画を立てるとともに、海流を徹底して調べていった。
森のなかのキャビン
トンガス国有林のなかにはパーク・サービスが運営する無料で宿泊できるキャビンがいくつかある。浜辺にあるキャビンであれば、旅の途中に息をついて休むことができる。
疲れ切ってたどり着いたときの、このキャビンのありがたさは言葉に尽くせない。テントだと、寝ているときもクマへの配慮が必要になるが、キャビンだとその心配もない。ただし、あまりにリラックスしすぎるのは良くない。用を足しに出たとき、不意にクロクマが木陰から現れたりして、腰を抜かす事になる。
高い木の森
辺りを見渡すと、木が高い。五十メートル以上あろうかという巨木の前を、二メートルの白頭鷲が舞う様子を見て、スケールのちがいに圧倒される。僕の中での原始のイメージと、ピタリと重なった。いったい、どれくらいの太古から、この風景は続いているのだろう。
クマがサケを取り逃がす
鮭の体はよく滑る。これがサケにとっては遡上の役に立つようだ。岩のある上流では、川から飛び出てしまった魚が体をくねらせて水へ戻っている。だが、クロクマとしては、これに苦労する。鮭を咥えて押さえつけるまで、途中で滑って逃してしまう者、食べようと地面に置いた時に、川に滑り落ちて行ってしまうのを、諦めて見ている者がいる。無数のサケが目の前にいるからといって、いつでも簡単に食べられるというわけではない。
サケ捕獲シーン
目が悪いと言われるクロクマだが、観察していると、サケをとるその瞬間だけは視力を使うより他に頼るものがないように思われる。狙いを定め、ここぞというところで川に飛び込む。
ちなみに、毛色は茶色だがこの熊はヒグマではなく、クロクマである。
森へもってゆく
サケをとらえたあと、ヒグマはその場で食べるが、クロクマは森の中へ運ぶという習性の違いが観察できる。これは毎回のことだったから、「習性」といってもよいだろう。
若いヒグマは、川の流れが緩やかな所に陣を取り、それよりも上流へ行こうとしない。ヒグマは木に登れないし、岩が多いところへは出て行かない。
森へ運ぶというクロクマの行動は、体が大きいヒグマを回避するための行動だと言えるかも知れない。
森に生きるクロクマ
樹木とクロクマの相性は良い。ここでは倒木がクロクマの歩く道となっている。急斜面の上の方から、倒れて交錯する木の上を、うまく渡り歩いてきている。そういえば、僕はヒグマが倒木の上を歩くのを見たことがない。ヒグマの体と木の太さを比べたときに、ヒグマの体重を支えられるほど木は太くないようにも見える。
つまり、ここアナンクリーク周辺の地形は、ヒグマではなく、クロクマに合っている。逆に、この地形にクロクマが合わせた、と考える方が順序として正しいかもしれない。
森の中に不自然に落ちているサケ
これが、まさに「クマが森をつくる」理由の、最大の証拠でもあった。
クマがサケを食べた後、フンとなって森に還ってゆくことを想像したが、かなりの数のサケが、森で忘れられたり、頭だけ食べられ捨て去られている。
のちに研究者の報告書を読んで知ったことであるが、太く高いシトカスプルース(アラスカ檜)の木々を調べてみると、その木のなかには、海由来の鉄・リン・窒素が見つかるという。
クロクマによって森に運ばれたサケは、形を変えて、木々の中へ入ってゆく…。
豊かな森
クロクマがサケを持ち運ぶことによって、たしかにこの森は深くなっていた。この事実は、ほんの20年前に科学的に明らかにされたことであったが、アラスカ先住民のなかではあたり前のこととして、彼ら自身の文化に浸透させていた考えだった。
自然を理解するという観点から見て、われわれ現代人はどれほど遠回りをしているのだろうか…
しかし悪い点ばかりではない。いまではクロクマだけでなく他のさまざまな動物も、森の成長に関わり合っているということがわかっている。
僕が見てきたハクトウワシも、アメリカミンクも、ゼニガタアザラシも、先住民に崇められたカラスさえも森とつながっている。
アラスカの雨林帯を研究する生物学者は、この連環の考えを発展させてコンベアベルトの森と呼んだ。
つまり、サケは海からの栄養をもたらし、それを食べた動物のフンや、サケの栄養を吸収した木々の生える土壌から、雨を通して流れ出し、またそれが、海に還ってゆくという図式である。
科学的に理解が深まれば、それは全人類で共有できる知恵となる。これこそが、僕たちの強みなのだ。
カヤックで海を渡りながら、森を見て、目の前でのクマを観察していると、このつながりを深く理解できた。
多くの生きものが繋がり合っている中で、とくにクロクマはその大いなる循環のとても重要な役割を果たしていることがわかる。
ここ南東アラスカの雨林帯は、雨が多いことが森をつくっている主な要因なのではなく、クロクマがサケを持ち運ぶことでつくられた深い深い豊かな森であった。
そしていま、このアナンクリークの森を含む、トンガス雨林帯の全土が、人間活動による破壊の危機にさらされている。僕はこの雨林帯のなかの、ある一つの島に焦点をあわせ、森を守るための、つぎの冒険を開始した。
雨林帯の島オオカミプロジェクトに続く…